レンタルiPadで戦国史を読もう PART6

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久方ぶりに暖かくなったようですが、相も変わらず、吹きすさぶ風は冷たくなっているようでございます。

今回も前回に引き続き、レンタルのiPadにて読む電子書籍をおすすめ致したく、戦国史について記述していきたいと思います。

端末をレンタルでご利用頂きますと新規購入よりも比較的、安価に済みますので、ぜひ、ご検討頂ければと思います。

拙文ではございますが、少しでも書籍に親しみを持って頂ければ幸いでございます。

今回も戦国時代という怒涛の時代を駆け抜けた三人の人物にスポットを当てていきます。

まずは織田 信長について、前回より引き続き、記述していきたいと思います。

信長を一躍、天下に躍り出させた戦いを世に「桶狭間の戦い」と呼ばれています。

1560年、5月に上洛(京都に向かうこと)を宣言した(諸説があり、単純に尾張国への進撃という説もある)駿河国(現在の静岡県中部)・遠江国(現在の静岡県西部)を治める今川 義元の軍勢は25000人とも30000人ともいわれています。

尾張と遠江の中間地点にある三河国を治める松平氏も勢力が衰退し、今川氏の傘下に入っている状態でしたから、実質上は三ヶ国の軍勢が尾張に向かって進撃してきたといっていいでしょう。

信長が集めた軍勢はおよそ3000人前後とされています。20000人に近い軍勢を率いる今川軍には到底、敵わぬものでした。

しかし、信長はそれらの軍勢を率いて、密かに出陣します。

今川軍は”田楽狭間”、または”桶狭間”と呼ばれる地帯で休息を取っていました。

桶狭間は現在の愛知県名古屋市緑区の有松町に古戦場公園として、残されており、ここが戦場であったとされています。

今川軍はそれまでに織田家の対今川軍用に築いた砦を次々に攻め落としていたので、桶狭間周辺の土地に住む領民たちが戦勝祝いに食料や酒類を献上したため、今川軍は「おけはざま山」と呼ばれる丘陵周辺で休憩していたのですが、そこへ織田軍が急襲を仕掛けてきたのです。

寝込みを襲われたも同然の今川軍はたちまち崩されていき、大将の今川 義元も討ち取られてしまったのです。

この桶狭間の戦いにも様々な諸説があり、義元の進軍理由、今川軍の総数、正確な戦闘の流れなど、不明点もあり、現在でも研究は進んでいるのでしょうが、信長は間違いなく強敵・今川 義元を斃し、天下にその名を轟かせたのでした。信長が26歳の時でした。

当主である義元を喪った今川家は衰退の一途を辿っていきます。

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今川軍は本拠である駿府に引き上げたのですが、今川家に臣従していた松平家の若き当主はこれを機に故郷・三河国に戻り、独立を果たすのです。

松平家の若当主・元信はそれまで今川家の人質として駿府での生活を余儀なくされており、家臣たちとは離れ離れになっていたのですが、絶対的な求心力を持っていた義元が亡き今、今川家の傘下である必要がなくなったのです。

この若当主は今川家だけでなく、織田家でも人質として生活していたことが縁となり、発展途上で歴史的な勝利を遂げた織田家との同盟を結ぶことになります。

この同盟を結んだ場所の名前を取って「清州同盟」と呼ばれています。

この元信がのちのち、松平 家康と名を変え、ゆくゆくは徳川 家康と呼ばれるに至るのです。

こうして、東の脅威が去った信長が選んだ次なる標的は美濃国の斎藤家でした。斎藤家を倒すために信長も苦心するのですが、容易に倒せるものではありません。

そんな中、我こそはと名乗りを上げたのが、織田家中きっての美人とされていた浅野家の娘・寧々<ねね>を妻に迎えた木下 藤吉郎でした。

・・・この続きは次回までのお楽しみということにさせて頂きます。

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