レンタルiPadで戦国史を読もう PART5

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すっかり肌寒くなり、日照時間も短くなったために4時頃ともなると夜になったかのような風景が広がっています。

今回も前回に引き続き、レンタルのiPadにて読む電子書籍をおすすめ致したく、戦国史について記述していきたいと思います。

端末をレンタルでご利用頂きますと新規購入よりも比較的、安価に済みますので、ぜひ、ご検討頂ければと思います。

拙文ではございますが、少しでも書籍に親しみを持って頂ければ幸いでございます。

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今回も戦国時代という怒涛の時代を駆け抜けた三人の人物にスポットを当てていきます。

まずは織田信長について、前回より引き続き、記述していきたいと思います。

父・信秀の経済感覚と独自の価値観を身につけた信長でしたが、1556年には彼の義父にあたり、織田家の同盟者である斎藤道三が我が子であるはずの斎藤義龍<さいとうよしたつ>(1527年~1561年)のクーデターに遭い、斃されてしまいます。

戦国時代には何度か父と子、あるいは母と子の争いが起きていますが、なぜこのように頻繁に起きたかについては当時の親子関係の希薄さにあるといっていいでしょう。

現在では男性は18歳、女性は16歳で結婚が認められていますが、中世以前の日本では、元服といって成人式のようなものがあり、男子は10代の前半にはもう成人扱いされていたのです。

また、大名家の後継ぎになる嫡男(ちゃくなん)は生後間もなく教育係に預けられ、親子は離れて暮らさなければならなくなります。

極端な話ですが、10代前半で成人扱いを受けた少年が同年代の少女と結婚し、後に子供を授かり、その子供は両親の顔を覚える間もなく乳母(女性の教育係であり、養母のような存在)に預けられるといった状態で、およそ肉親間に横たわる生々しい感情が芽生えづらい環境であったことは否めないところです。

その大名の性格に肉親の感情が薄ければ薄いほど、血の繋がりを大切にしていた時代には矛盾した他人行儀さがあり、我が両親、我が子といえども政敵になってしまうのです。

一方で、長男ではない次男や三男は親元で育てられるため、偏愛が場合によっては起こりうる状態でした。

武家の仕来りと割り切れない人間の感情がお家騒動を引き起こすことがあったのです。

義龍と道三の関係性については諸説があり、真実は定かではありませんが、結局は親子関係というよりは初代創業者と二代目社長のトップ争いという乾ききった関係性が引き起こした事件といえるでしょう。

この結果、信長は東に今川氏、西に斎藤氏という強敵に挟み撃ちにされてしまいます。

こういった政情不安定が織田家に分裂を招きます。

信長の弟である織田信勝<おだのぶかつ>(?~1557年)と母である土田御前の存在でした。

信勝は土田御前と共に暮らしていたため、母から限りない愛情を受けて育てられ、品行方正、およそ奇矯な振る舞いの目立つ当主・信長に比べると周囲の目から見れば、大将の器たるに相応しい人物のようでした。

当時の家来というのは忠義というよりかは自家の保全、あるいは自家の発展といった意味で主人に仕えているといった気配が濃厚でした。

次の”いくさ”で手柄を立てることで、土地・金・知行増加(賃上げ)を期待していたようです。

つまり、自分たちに手柄を立てさせてくれる人物であれば喜んで味方をするという考え方とも取れるのです。

織田家では、信長を押し立てる者と信勝を押し立てる者とで二分してしまったのです。信長は巧みに信勝陣営の諸将を懐柔し、切り崩しに成功します。

信勝陣営には後に信長の家来のトップのような立ち位置にあたる宿老(しゅくろう)となる柴田勝家<しばたかついえ>(1522年~1583年)がいたことを思えば、当時の主従関係の複雑さが見えてきます。

切り崩しの結果、信勝は劣勢に立たされますが、兄弟の母であり、この騒動の一因を成している土田御前の助命嘆願があり、信長は一旦、信勝を許します。

しかし、信勝に反乱の兆しありとして、討ち取ってしまうのです。

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23歳にして、これほどの無情な出来事を契機に尾張平定を成し遂げた信長でしたが、この前後に一人の草履取り(主人の草履を持って供をする使用人)が彼の目に留まります。

その小柄な体躯と容貌が猿に似た青年はまだ20歳になったかならぬかの時期でした。

この青年は信長から”猿”と呼ばれ、陽気な性格から周囲の人物たちからも好かれています。

彼は草履取りから様々な奉行職を歴任するのですが、この青年の名を木下藤吉郎<きのしたとうきちろう>といいます。

後の天下人・豊臣秀吉<とよとみひでよし>(1536年~1598年)、その人でした。

藤吉郎は尾張国の農村に住む織田家・足軽の息子とされています。

藤吉郎はやがて織田家に仕えるようになり、立身出世を重ねていくようになります。

当時の大名家では藤吉郎のような農村の足軽階級の息子が出世していくこと自体が不可能に近かったといっても過言ではありませんでした。

信長の革新的な性格はその人事にもよく表れています。

まずは木下藤吉郎、次いで甲賀忍者の出身という滝川一益<たきがわかずます>(1525年~1586年)やかつて信勝を担いで信長に刃を向けた柴田勝家など有能な人材であれば誰であろうとどんな出自であろうと出世させていくといったことです。

この感覚はおよそ武士というよりは商人に近いといわれています。

ひとつには尾張国の経済発展が遠因となり、武士たちの中にも商人のような合理的な考え方が身に付くようになっていたようです。

商人というのは、決して負けるような博打的な商売はしないものです。その双肩には奉公人(従業員)たちの生活がかかっています。

信長もたった一度の一か八かのような奇襲戦法以外はすべて相手よりも兵数を増やし、勝てると見込むまではその相手には手出しをしないといったような戦いのセオリーを徹底的に貫いていたようです。

その”たった一度の奇襲戦法”がこの3年後にやってくるのです。

この奇襲戦法が信長の名を天下に轟かせることになります。信長を天下人の階段に登らせ始めた戦場の名は”田楽狭間”(でんがくはざま)とも呼ばれていますが、後世にはもう一つの名で広く語り継がれることになります。

この、もう一つの名を”桶狭間”(おけはざま)といいます。

・・・この続きは次回までのお楽しみということにさせて頂きます。

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