年末年始営業日のお知らせ

誠に勝手ながら、弊社の年末年始の営業日程は下記の通りとさせていただきます。

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皆様にはご迷惑をおかけしますが、何卒ご容赦願います。

今年一年ご愛顧を賜りまして大変感謝申し上げますと伴に、皆様ご多幸をお祈りいたします。

敬具

レンタルiPadで戦国史を読もう PART7

クリスマスが近づいてきています。

ケーキの予約も引っ切り無しということも耳にしております。

今回も前回に引き続き、レンタルのiPadにて読む電子書籍をおすすめ致したく、戦国史について記述していきたいと思います。

端末をレンタルでご利用頂きますと新規購入よりも比較的、安価に済みますので、ぜひ、ご検討頂ければと思います。

拙文ではございますが、少しでも書籍に親しみを持って頂ければ幸いでございます。

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今回も戦国時代という怒涛の時代を駆け抜けた三人の人物にスポットを当てていきます。まずは織田 信長について、前回より引き続き、記述していきたいと思います。

桶狭間にて歴史的な勝利を収めた信長でしたが、彼の次なる標的は美濃国(現在の岐阜県)の斎藤氏の攻略でした。

そこへ、名乗りを上げたのが織田家で着実に出世を重ね、草履取りの身分から士分(侍の身分)にまでのし上がった木下 藤吉郎です。

彼は古くからの知り合いである川並衆(かわなみしゅう)と呼ばれる傭兵集団の長である蜂須賀 正勝<はちすか まさかつ>(1526年~1586年)の協力を仰ぎ、斎藤家の本拠である稲葉山城を攻めるのに最適な墨俣(すのまた)という土地に前哨基地を作ることを命ぜられます。

また、斎藤家の要である”美濃三人衆”と呼ばれる重臣たちも味方に付け、一気に織田家を優勢にします。

墨俣に築かれた城というよりは砦は、川の中州に位置し、川の上流からあらかじめ成形された材木を流し、中州で受け取り、一夜の内に築かれました。現在のプレハブ方式ですが、これを「墨俣の一夜城」と後世には伝えられています。

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この前哨基地の完成と斎藤家の重臣であり、斎藤家の柱石を担う”美濃三人衆”の安藤 守就<あんどう もりなり>(1503年~1582年)・稲葉 一鉄<いなば いってつ>(1515年~1588年)・氏家 卜全<うじいえ ぼくぜん>(1512年~1571年)が当主である義龍の病死後、跡を継いだ息子の斎藤 龍興<さいとう たつおき>(1548年~1573年)から離反し、織田家に味方したため、難攻不落の城として知られた斎藤家の居城・稲葉山城は陥落し、美濃国は織田家の手中に収まりました。

因みに三人衆の一人である稲葉 一鉄という人物は一説によると、「頑固一徹」という四字熟語の語源といわれています。

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これが1567年の出来事ですので、信長が33歳の頃で桶狭間の合戦から7年後のことになります。

信長は尾張・美濃という二つの大国を手に入れ、稲葉山城跡に居を移しました。この跡地に新たに城を建築し、“岐阜”という地名に変えました。

岐阜というのは古代中国の人物である周の文王が岐山より起こり、天下を定むという故事の岐という字と孔子の生誕地とされる曲阜の阜を合わせて、平和と学問の両面を兼ね備えた街にしていこうという意味合いからつけたという説と中国で縁起のいい地名とされる岐山・岐陽・岐阜という三種類の候補の中から選ばれたという説があり、どちらも有力視されていますが、中国から命名の着想を得ているということが共通しています。

このように、稲葉山城やその城下町である井ノ口という名が、現在の”岐阜城”と”岐阜”の町名に変わったのです。

美濃を手に入れた信長は一挙に戦国大名たちの天下取りレースに参戦できる立ち位置につきました。P_500

では、何故に美濃を手に入れた信長が飛躍したのかについては、当時の地理情勢が深く根付いています。その頃の日本の中心地は京都でした。

しかし、中心地である京都は先述の”応仁の乱”という壮絶な家督争いの戦場とされ、荒廃してしまいました。

もちろん、その家督争いの結果、日本の統治者である足利将軍の力も衰退し、戦国時代となり、誰が中心地である京都を治められるかということに主眼が向くようになります。

つまり、誰が京都に最も近く、京都を治められるような強大な軍事力を持てるかということに、天下取りの決め手が隠されていたのです。

では、その条件を満たした人物は誰かということになると、信長以外にいなかったという結論に辿りつくのです。

・・・この続きは次回までのお楽しみということにさせて頂きます。

レンタルiPadで戦国史を読もう PART6

久方ぶりに暖かくなったようですが、相も変わらず、吹きすさぶ風は冷たくなっているようでございます。

今回も前回に引き続き、レンタルのiPadにて読む電子書籍をおすすめ致したく、戦国史について記述していきたいと思います。

端末をレンタルでご利用頂きますと新規購入よりも比較的、安価に済みますので、ぜひ、ご検討頂ければと思います。

拙文ではございますが、少しでも書籍に親しみを持って頂ければ幸いでございます。

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今回も戦国時代という怒涛の時代を駆け抜けた三人の人物にスポットを当てていきます。

まずは織田 信長について、前回より引き続き、記述していきたいと思います。

信長を一躍、天下に躍り出させた戦いを世に「桶狭間の戦い」と呼ばれています。

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1560年、5月に上洛(京都に向かうこと)を宣言した(諸説があり、単純に尾張国への進撃という説もある)駿河国(現在の静岡県中部)・遠江国(現在の静岡県西部)を治める今川 義元の軍勢は25000人とも30000人ともいわれています。

尾張と遠江の中間地点にある三河国を治める松平氏も勢力が衰退し、今川氏の傘下に入っている状態でしたから、実質上は三ヶ国の軍勢が尾張に向かって進撃してきたといっていいでしょう。

信長が集めた軍勢はおよそ3000人前後とされています。20000人に近い軍勢を率いる今川軍には到底、敵わぬものでした。

しかし、信長はそれらの軍勢を率いて、密かに出陣します。

今川軍は”田楽狭間”、または”桶狭間”と呼ばれる地帯で休息を取っていました。

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桶狭間は現在の愛知県名古屋市緑区の有松町に古戦場公園として、残されており、ここが戦場であったとされています。

今川軍はそれまでに織田家の対今川軍用に築いた砦を次々に攻め落としていたので、桶狭間周辺の土地に住む領民たちが戦勝祝いに食料や酒類を献上したため、今川軍は「おけはざま山」と呼ばれる丘陵周辺で休憩していたのですが、そこへ織田軍が急襲を仕掛けてきたのです。

寝込みを襲われたも同然の今川軍はたちまち崩されていき、大将の今川 義元も討ち取られてしまったのです。

この桶狭間の戦いにも様々な諸説があり、義元の進軍理由、今川軍の総数、正確な戦闘の流れなど、不明点もあり、現在でも研究は進んでいるのでしょうが、信長は間違いなく強敵・今川 義元を斃し、天下にその名を轟かせたのでした。信長が26歳の時でした。

当主である義元を喪った今川家は衰退の一途を辿っていきます。

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今川軍は本拠である駿府に引き上げたのですが、今川家に臣従していた松平家の若き当主はこれを機に故郷・三河国に戻り、独立を果たすのです。

松平家の若当主・元信はそれまで今川家の人質として駿府での生活を余儀なくされており、家臣たちとは離れ離れになっていたのですが、絶対的な求心力を持っていた義元が亡き今、今川家の傘下である必要がなくなったのです。

この若当主は今川家だけでなく、織田家でも人質として生活していたことが縁となり、発展途上で歴史的な勝利を遂げた織田家との同盟を結ぶことになります。

この同盟を結んだ場所の名前を取って「清州同盟」と呼ばれています。

この元信がのちのち、松平 家康と名を変え、ゆくゆくは徳川 家康と呼ばれるに至るのです。

こうして、東の脅威が去った信長が選んだ次なる標的は美濃国の斎藤家でした。斎藤家を倒すために信長も苦心するのですが、容易に倒せるものではありません。

そんな中、我こそはと名乗りを上げたのが、織田家中きっての美人とされていた浅野家の娘・寧々<ねね>を妻に迎えた木下 藤吉郎でした。

・・・この続きは次回までのお楽しみということにさせて頂きます。

レンタルiPadで戦国史を読もう PART5

すっかり肌寒くなり、日照時間も短くなったために4時頃ともなると夜になったかのような風景が広がっています。

今回も前回に引き続き、レンタルのiPadにて読む電子書籍をおすすめ致したく、戦国史について記述していきたいと思います。

端末をレンタルでご利用頂きますと新規購入よりも比較的、安価に済みますので、ぜひ、ご検討頂ければと思います。

拙文ではございますが、少しでも書籍に親しみを持って頂ければ幸いでございます。

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今回も戦国時代という怒涛の時代を駆け抜けた三人の人物にスポットを当てていきます。

まずは織田信長について、前回より引き続き、記述していきたいと思います。

父・信秀の経済感覚と独自の価値観を身につけた信長でしたが、1556年には彼の義父にあたり、織田家の同盟者である斎藤道三が我が子であるはずの斎藤義龍<さいとうよしたつ>(1527年~1561年)のクーデターに遭い、斃されてしまいます。

戦国時代には何度か父と子、あるいは母と子の争いが起きていますが、なぜこのように頻繁に起きたかについては当時の親子関係の希薄さにあるといっていいでしょう。

現在では男性は18歳、女性は16歳で結婚が認められていますが、中世以前の日本では、元服といって成人式のようなものがあり、男子は10代の前半にはもう成人扱いされていたのです。

また、大名家の後継ぎになる嫡男(ちゃくなん)は生後間もなく教育係に預けられ、親子は離れて暮らさなければならなくなります。P_500

極端な話ですが、10代前半で成人扱いを受けた少年が同年代の少女と結婚し、後に子供を授かり、その子供は両親の顔を覚える間もなく乳母(女性の教育係であり、養母のような存在)に預けられるといった状態で、およそ肉親間に横たわる生々しい感情が芽生えづらい環境であったことは否めないところです。

その大名の性格に肉親の感情が薄ければ薄いほど、血の繋がりを大切にしていた時代には矛盾した他人行儀さがあり、我が両親、我が子といえども政敵になってしまうのです。

一方で、長男ではない次男や三男は親元で育てられるため、偏愛が場合によっては起こりうる状態でした。

武家の仕来りと割り切れない人間の感情がお家騒動を引き起こすことがあったのです。

義龍と道三の関係性については諸説があり、真実は定かではありませんが、結局は親子関係というよりは初代創業者と二代目社長のトップ争いという乾ききった関係性が引き起こした事件といえるでしょう。

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この結果、信長は東に今川氏、西に斎藤氏という強敵に挟み撃ちにされてしまいます。

こういった政情不安定が織田家に分裂を招きます。

信長の弟である織田信勝<おだのぶかつ>(?~1557年)と母である土田御前の存在でした。

信勝は土田御前と共に暮らしていたため、母から限りない愛情を受けて育てられ、品行方正、およそ奇矯な振る舞いの目立つ当主・信長に比べると周囲の目から見れば、大将の器たるに相応しい人物のようでした。

当時の家来というのは忠義というよりかは自家の保全、あるいは自家の発展といった意味で主人に仕えているといった気配が濃厚でした。

次の”いくさ”で手柄を立てることで、土地・金・知行増加(賃上げ)を期待していたようです。

つまり、自分たちに手柄を立てさせてくれる人物であれば喜んで味方をするという考え方とも取れるのです。

織田家では、信長を押し立てる者と信勝を押し立てる者とで二分してしまったのです。信長は巧みに信勝陣営の諸将を懐柔し、切り崩しに成功します。

信勝陣営には後に信長の家来のトップのような立ち位置にあたる宿老(しゅくろう)となる柴田勝家<しばたかついえ>(1522年~1583年)がいたことを思えば、当時の主従関係の複雑さが見えてきます。

切り崩しの結果、信勝は劣勢に立たされますが、兄弟の母であり、この騒動の一因を成している土田御前の助命嘆願があり、信長は一旦、信勝を許します。

しかし、信勝に反乱の兆しありとして、討ち取ってしまうのです。

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23歳にして、これほどの無情な出来事を契機に尾張平定を成し遂げた信長でしたが、この前後に一人の草履取り(主人の草履を持って供をする使用人)が彼の目に留まります。

その小柄な体躯と容貌が猿に似た青年はまだ20歳になったかならぬかの時期でした。

この青年は信長から”猿”と呼ばれ、陽気な性格から周囲の人物たちからも好かれています。

彼は草履取りから様々な奉行職を歴任するのですが、この青年の名を木下藤吉郎<きのしたとうきちろう>といいます。

 

後の天下人・豊臣秀吉<とよとみひでよし>(1536年~1598年)、その人でした。

 

藤吉郎は尾張国の農村に住む織田家・足軽の息子とされています。

藤吉郎はやがて織田家に仕えるようになり、立身出世を重ねていくようになります。

当時の大名家では藤吉郎のような農村の足軽階級の息子が出世していくこと自体が不可能に近かったといっても過言ではありませんでした。

信長の革新的な性格はその人事にもよく表れています。

まずは木下藤吉郎、次いで甲賀忍者の出身という滝川一益<たきがわかずます>(1525年~1586年)やかつて信勝を担いで信長に刃を向けた柴田勝家など有能な人材であれば誰であろうとどんな出自であろうと出世させていくといったことです。

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この感覚はおよそ武士というよりは商人に近いといわれています。

ひとつには尾張国の経済発展が遠因となり、武士たちの中にも商人のような合理的な考え方が身に付くようになっていたようです。

商人というのは、決して負けるような博打的な商売はしないものです。その双肩には奉公人(従業員)たちの生活がかかっています。

信長もたった一度の一か八かのような奇襲戦法以外はすべて相手よりも兵数を増やし、勝てると見込むまではその相手には手出しをしないといったような戦いのセオリーを徹底的に貫いていたようです。

その”たった一度の奇襲戦法”がこの3年後にやってくるのです。

この奇襲戦法が信長の名を天下に轟かせることになります。信長を天下人の階段に登らせ始めた戦場の名は”田楽狭間”(でんがくはざま)とも呼ばれていますが、後世にはもう一つの名で広く語り継がれることになります。

この、もう一つの名を”桶狭間”(おけはざま)といいます。

・・・この続きは次回までのお楽しみということにさせて頂きます。

レンタルiPadで戦国史を読もう PART4

今回も前回に引き続き、レンタルのiPadにて読む電子書籍をおすすめ致したく、戦国史について記述していきたいと思います。

端末をレンタルでご利用頂きますと新規購入よりも比較的、安価に済みますので、ぜひ、ご検討頂ければと思います。

拙文ではございますが、少しでも書籍に親しみを持って頂ければ幸いでございます。img_00032

前回に引き続き、戦国時代を代表する三人の人物にスポットを当てていきたいと思います。

奇矯な振る舞いの目立つ信長にも婚約者ができました。

尾張の隣国である美濃国(現在の岐阜県)の国主・斎藤道三の娘・帰蝶<きちょう>(1535年~?)が信長の婚約者でした。

この帰蝶という姫は”濃姫”<のうひめ>という名で広く知られています。美濃国から来た姫なので、濃姫ということでしょう。

信秀と道三はどちらも下克上という時代が生んだ大物であり、幾度か合戦を交えています。

引き分けになった戦いも多く、勝負は持ち越しといった状態が続いていたのですが、信秀は国内の発展に専念し、駿河国(現在の静岡県中部)と遠江国(現在の静岡県西部)の二ヶ国を治め、尾張の東の隣国である三河国(現在の愛知県東部)を治める松平氏をその傘下に収めて、尾張を狙う今川氏に対抗するためには、道三との同盟が必要だったのです。

斎藤道三という人物は「美濃の蝮<まむし>」というあだ名を持つほどに苛烈な人物だったようです。

元来、信じられてきた説として、元々、道三は京都の寺の坊主で、そこを飛び出し、山崎屋という油問屋に婿入りし、その資金力を背景に、東海道と中山道がちょうど交わる美濃国が狙い目だと判断し、その国を守護する土岐氏の家来となり、やがては主である土岐氏を追放し、美濃国を奪い取った人物とされていました。

しかし、近年では道三の父が、着々と下克上を重ね、土岐氏の重臣となり、道三の代で美濃国を制覇したという説が、通説となっているようです。

ですが、国を奪い取ったことは事実のようで、そういった統率力があったればこそ、家来たちが道三に味方したといえます。

その後、道三と信長が対面することになるのですが、彼が15歳であったとも、19歳であったともいわれています。

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どちらにせよ、まだ10代の信長と50代後半の道三という子供と老人ほどの差がありました。

二人が対面したのは尾張と美濃の中間地点にある正徳寺<しょうとくじ>という社寺でした。

これにも逸話があり、創作の可能性もあるのですが、記しておきます。

信長はいつものようにうつけと呼ばれるような奇抜な恰好で、数百名の軍勢を率いて、正徳寺に向かっていました。

そんな信長の姿を街道脇の小屋から覗き見していたのが道三でした。

道三も一時は信長を噂に違わぬうつけ者だと思いましたが、信長の軍勢の装備を見て、仰天します。

当時は最新兵器で、所持している大名もわずかしかいなかった火縄銃・種子島を数百挺も装備し、通常よりも遥かに長い槍を持たせ、何よりも目を見張ったのが、軍勢の鎧などの装飾の美々しさでした。

わずかな軍勢でもこのような工夫を凝らした装備の前にあっては、一筋縄でいくものではありません。

信秀の経済政策が実を結び、高価で貴重品だった種子島を購入することもでき、各国の商人が自由に出入りをして、様々な武具が流通し、それによって文化度も向上したということになります。

その当時の商売というものは、その土地で仲間内だけで商売をすることが特権のようになっていたので、よそ者や流れ者が商売をするというのは、許可が必要だったり、嫌がらせを受けたりと容易なことではありませんでした。

それが信秀の領内では、比較的、自由度が高かったとされています。

道三にも経済感覚はありましたが、まさか信長という若者にその感覚があり、独特のセンス、美意識まで兼ね備えているとは、思わなかったのでしょう。

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やがて、正徳寺にて対面という時になって、道三は街道脇で見た信長の姿から、略服でいいとして、座していたのですが、その場に現れた信長の姿は、対面の場にふさわしい正装に着替え、まるで貴公子のような美男ぶりだったのです。

これでは、略服などというおよそ対面には向かない服装の道三の面目は丸つぶれとなってしまいます。

ですが、信長は道三の領国経営の手腕を褒めちぎり、まるで師父を仰ぐような挨拶をするのです。道三もこれには苦笑せざるを得なかったようです。

しかし、道三の肝を冷やしたのは、信長の次の言葉でした。

「正徳寺に向かう途上、街道脇の小屋に自分を覗き見する無礼な者がいた。道三殿によく似ておられるように見えたが、そのような者が、我が義父・道三殿であるはずがない」と…。

この話に真実性というものがあるかについては、定かではありませんが、信長が只者ではないことは分かるように思えます。

さらにこの話の締めくくりとして、対面を終えた道三が自身の家来に「いずれ、わしの倅たちは信長の門前に馬をつなぐようになる」と言い残したといわれています。つまり、自分の子供たちは信長の家来になってしまうと予言したのです。

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このように信長には周囲の人々から賛否両論のような評価を受けていたのです。

濃姫を妻に迎えた信長ですが、1551年に敬愛すべき父・信秀との別れがあり、好調だった織田家に暗雲が立ち込めます。

・・・この続きは次回までのお楽しみということにさせて頂きます。

レンタルiPadで戦国史を読もう PART3

今回も前回に引き続き、レンタルのiPadにて読む電子書籍をおすすめ致したく、戦国史について記述していきたいと思います。

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戦国時代には様々な人間ドラマがあり、日本の各地でも様々な動きがありましたが、その時代を象徴する三人の人物にスポットを当てて、この三人から戦国時代を眺めていきたいと思います。まずは一人目です。

 

○織田信長<おだのぶなが>(1534年~1582年)

 

この人物は「革新」という言葉がぴったりとあてはまるような人物です。

日本人が1000年以上かけて作り上げた、見様によっては強者にとって都合のいい常識というものを、すべて否定したという人物でした。

王道と覇道を進む者があるとすれば、間違いなく信長は覇道を進む人物ではないでしょうか。

彼は1534年に尾張国(現在の愛知県)の戦国大名・織田信秀<おだのぶひで>(1508年、または1510年~1551年)と土田御前<とだごぜん>(?~1594年)の間に生まれました。

幼名を吉法師<きっぽうし>といい、幼い頃から奇矯な振る舞いが多かったため、「うつけもの」と呼ばれていたそうです。

そんな信長が、なぜに後世まで語り継がれる人物にまでなれたかといえば、最大の理由は戦国時代を終わらせ、天下を統一しかけたことにあります。

では、なぜに天下を望めるほどの人物になれたかについては、父の信秀の物語にヒントが隠されているようです。

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父の信秀は、尾張国の守護(幕府からその国を任されている地方長官のようなもの)である斯波氏の家来のそのまた家来という立場にありました。

信秀は一種の商業都市と化していた「津島」と「熱田」を支配していたため、経済的に潤っていました。

津島と熱田という地には、「津島神社」と「熱田神宮」という人々が大勢、参拝に訪れる社寺があったため、その人々を目当てに集まった商人たちが儲ける金銭に信秀は目をつけたのです。

当時は、金銭と米が経済を二分していたようで、税を米で収めるといった習慣もありました。

ですから、価値観としては米も金銭と同じものといったような感覚だったのでしょう。信秀は盛んに商業の発展を推奨し、様々な国の商品が尾張国に流れるようになりました。

信秀のこの商業推奨は、後に信長の手によって、「楽市楽座」という制度の基礎となり、米だけに頼らない自由度の高い考え方の手本となっていたわけです。

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もちろん、米=食糧が無くては戦争ができないため、干拓開発にも尽力し、米所としても尾張は名を馳せるようになりました。現在でもこの名残は残っています。

こうした結果、家来の家来である信秀は尾張国を一代でほぼその手中に収めたのです。

信長はこうした経済感覚を幼い頃から身につけ、肌で感じ取り、独自の価値観を作り上げていったようです。

しかし、うつけの異名を持つことは、父である信秀にとって、心配の種になっていたのか、吉法師から元服(成人)し、信長となった息子を結婚させることにします。

信長が14歳の頃でした。

この婚姻も多分に政治的なものを含んでいるとはいえ、信長にとっては運命的な出逢いへと繋がっていくことになります。

 

・・・この続きは次回までのお楽しみということにさせて頂きます。

 

12月のペンタブレット お試しサービス~応募のお知らせ~ PART2

いよいよ年の瀬が近づいて参りました。

店頭にはお餅やおせちなどのお正月ならではの風景が広がっています。この季節は休業に入るお店も多く、職種を問わず、束の間の休息に入るようでございます。

ご利用中のパソコンなどにトラブルが発生した際、新品購入、修理までの間、レンタルのパソコンをお使い頂きますと、大変、便利かと思われますので、ぜひ、こちらも併せて、ご検討のほど、宜しくお願い致します。

 

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さて、今回はご好評を頂いております、「無料試用期間14日間・ペンタブレットお試しサービス」(※ 片道分の送料のみ、ご負担頂きます)

応募のお知らせでございます。

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応募期間:2016年12月1日~12月3日

貸出期間:2016年12月11日~12月24日までの14日間(お客様到着日~弊社到着日まで)

ご返却が間に合わない場合、遅延金が発生いたします。詳細は製品貸出規約をご確認ください。

対象製品

  • Intuos Pro medium 5台
  • Intuos Pro large 5台
  • Cintiq 13HD 5台
  • Cintiq 13HD touch 5台
  • Cintiq 22HD 3台
  • Cintiq 22HD touch 3台

対象者:日本国内にお住まいで、ご本人様のご確認が取れるお客様

お申込み方法:弊社応募フォームより、製品貸出規約に同意の上、ご希望の機種を選択して、お申込み頂きます。

申し込み多数の場合は抽選とさせて頂きますので、ご了承くださいませ。

本サービスにて貸出可能、または当選された方には、原則、発送の5日前までに、メールにてご連絡させて頂きます。なお、メールは当選者の方のみに送らせて頂いておりますので、こちらもご了承くださいませ。

その他、貸出期間や、貸出に必要なもの、発送、ご返却について、などの詳細は弊社のホームページに掲載されておりますので、そちらをご覧くださいませ。

また、この他にご不明な点がございましたら、お気軽に弊社までお問い合わせくださいますよう、宜しくお願い致します。

皆様のご応募、心よりお待ち申し上げております。

 

 

12月のペンタブレット お試しサービス~応募のお知らせ~

すっかり、肌寒くなってまいりました。

コートが必要な時期となって、いよいよ、年の瀬が近づいております。先月には、もう雪が降り、天候にも若干の変化がございました。

今年から来年にかけて、雪には注意を払わなければならないようでございます。

ご利用中のパソコンなどにトラブルが発生した際、新品購入、修理までの間、レンタルのパソコンをお使い頂きますと、大変、便利かと思われますので、ぜひ、こちらも併せて、ご検討のほど、宜しくお願い致します。

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さて、今回はご好評を頂いております、「無料試用期間14日間・ペンタブレットお試しサービス」(※ 片道分の送料のみ、ご負担頂きます)

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応募期間:2016年12月1日~12月3日

 

貸出期間:2016年12月11日~12月24日までの14日間(お客様到着日~弊社到着日まで)

ご返却が間に合わない場合、遅延金が発生いたします。詳細は製品貸出規約をご確認ください。

 

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