レンタルiPadで戦国史を読もう PART2

今回はレンタルのiPadにて読む電子書籍をおすすめ致したく、戦国史について記述していきたいと思います。

端末をレンタルでご利用頂きますと新規購入よりも比較的、安価に済みますので、ぜひ、ご検討頂ければと思います。

拙文ではございますが、少しでも書籍に親しみを持って頂ければ幸いでございます。

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熾烈な下克上の時代において、子が父の座を奪い取るということもあったようです。

甲斐国(現在の山梨県)の戦国大名・武田信玄<たけだしんげん>(1521年~1573年)です。

信玄は後の世まで「天下最強の騎馬軍団」を率い、風林火山の旗印を立て、上杉謙信<うえすぎけんしん>(1530年~1578年)と五回にも及ぶ「川中島合戦」<かわなかじまがっせん>を繰り広げ、若かりし日の徳川家康<とくがわいえやす>(1543年~1616年)を「三方ヶ原合戦」<みかたがはらがっせん>で散々に痛めつけたことでも知られている人物です。

 

信玄は、若い頃は晴信<はるのぶ>という名で(”信玄”というのは法名、仏門に帰依した際に与えられる名前)、父は信虎<のぶとら>(1493年~1574年)という人物でした。

しかし、後継ぎであるはずの信玄は父から疎まれ、危うく廃嫡(相続権を奪われること)になりかけていたようで、この時、信虎よりも信玄に大器があると見込んだ家臣たちは、密かに信玄と共に信虎を追放する計画を立てていたのです。

実はこれにも諸説があり、信虎を追放した自分たちの正当性を示すべく、信玄たちが作り上げた物語ではないか、というものもあります。

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いずれにせよ、信虎は甲斐国の隣国である駿河国(現在の静岡県中部)の大名である今川義元<いまがわよしもと>(1519年~1560年)の下に嫁いだ娘に会いに行くため、国境を出て以来、二度と甲斐国には戻れなくなってしまったのです。

このようにして、実父から当主の座を奪い取って、自身が大名になるという例もあります。後に宿敵関係となる上杉謙信(この当時の名は長尾景虎<ながおかげとら>)は信玄をして「親不孝者」と痛烈に批判しています。

これは1541年頃の出来事ですので、信玄が20歳ということになります。

弱冠20歳の青年が何万人という人々の生活を保障するだけでなく、自分の父を追放せねばならないというように身内同士でも骨肉の争いが起きていた世の中でした。

おそらく、日本国の至る所で安寧を求める声というものが地鳴りのように湧き上がり、やがては”天下統一”ということにまで進んでいったようです。

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ここで、”天下統一”というおよそ、平和的な響きとは対極にありながら、その実現に大きく尽力した兵器が登場します。

“火縄銃”の伝来です。

1543年に種子島に漂着したポルトガル船に乗っていたポルトガル商人から伝わったとされる火縄銃ですが、最初はわずか二挺だったそうです。

その内、一挺を鍛冶師の八板金兵衛<やいたきんべえ>(1502年~1570年)の手によって、複製され、やがては、その噂を聞きつけた和泉国(現在の大阪府南部)の堺の商人や紀伊国(現在の和歌山県)の根来の僧たちが買い求めたものが、やがては何千、何万挺と増産されたといわれています。

この金兵衛の手によって、作成された”国産”の火縄銃を伝来した島の名を取って“種子島”といいます。

このためか、当時の堺や根来は鉄砲のメッカとなりました。この兵器の出現が、種子島を多数所持する大名たちが繰り広げた様々な合戦を優勢に導き、”天下統一”という途方もない偉業を達成させたといえるかもしれません。

では戦国時代に至った経緯と時代が生んだ状況を述べましたが、次回より戦国時代を代表する三人の武将に視点を向けて、戦国史を記述していきたいと思います。

レンタルiPadで戦国史を読もう

今回はレンタルのiPadにて読む電子書籍をおすすめ致したく、戦国史について記述していきます。

端末をレンタルでご利用頂きますと新規購入よりも比較的、安価に済みますので、ぜひ、ご検討頂ければと思います。

拙文ではございますが、少しでも書籍に親しみを持って頂ければ幸いでございます。img_00011

戦国時代…と呼ばれていた時代が日本にはありました。西暦1450年以降から、1570年代まで続いた時代とされています。

ですから、500年ほど前ということになります。

その頃の日本を収めていたのは、足利幕府<あしかがばくふ>、または室町幕府<むろまちばくふ>と呼ばれる政治機関です。img_00012

“足利”というのは、この幕府を作り上げた人物である足利尊氏<あしかがたかうじ>(1305年~1358年)の姓からきたもので、“室町”というのは御所と呼ばれる将軍(幕府のトップで武士たちのリーダー的な存在、この場合は尊氏)の住まいがあった京都の地名からきています。

幕府の呼び名というのは、その幕府が開かれた場所や、開いた人物の姓を取って呼ぶ場合があります。

例えば、室町幕府の前時代の鎌倉幕府(1185年または1192年~1333年)というのは、開かれた場所が鎌倉だったことから来ています。

しかし、鎌倉幕府を開いた源頼朝<みなもとのよりとも>(1147年~1199年)の姓である”源”を取って、源幕府、あるいは源氏幕府とはあまり呼びません。

その鎌倉幕府が倒されて、後に幕府を作ったのが足利尊氏でした。

さらに詳しくいうと、幕府の最高職は「正一位・征夷大将軍」<しょういちい・せいいたいしょうぐん>で、これは京都の朝廷から賜る武士たちにおけるトップの官位でした。

将軍には幕府を開き、政治を主導できる権限のようなものがありました。この将軍職は、源頼朝以降には源氏の一族またはその子孫にのみ、継ぐことのできる役職になりました。ちなみに尊氏も源氏の流れを汲むということで将軍になりました。

その後、足利幕府は三代将軍・足利義満<あしかがよしみつ>(1358年~1408年)の時代に隆盛を誇りました。

義満は明国といった頃の中国と貿易をする日明貿易<にちみんぼうえき>、または勘合貿易<かんごうぼうえき>で莫大な資産を築き上げ、それを背景にして、国内の貴人や明国の使者などを出迎える迎賓館のような性格を持った「金閣寺」を建立したことで有名です。

また、征夷大将軍だけでなく、公家のトップである「正一位・太政大臣」<しょういちい・だじょうだいじん>という職にも就くという快挙を成し遂げています。

しかし、八代将軍の時代に起きた「応仁の乱」(1467年~1477年)という京都周辺を巻き込んだ家督争いという名を借りた国内戦争で、戦場とされた京都は壊滅的な被害を蒙るのです。

この結果、日本を統治していた足利幕府の力は弱まってしまいました。

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その代わりにだんだんと力をつけてきたのが、足利幕府によって、地方の守護を任された大名たちでした。

日本の中心部分が弱まる時、地方が力をつけるというのは、この後の歴史でも繰り返す部分があります。

天下の主がいないという状況が群雄割拠の戦国時代の始まりといえます。

時代は、力のない者が力を持つ者にその地位を奪われるといった下克上の時代でもあり、地方に割拠する大名たちの中でも、統率力のない者たちは統率力のある家来や自身の親族である者たちから、どんどんその立場を侵食され始めます。

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典型的な例としては、鎌倉幕府の執権職(将軍を補佐する人物のこと)である北条氏の姓を名乗り、後に関東一円に覇を唱えるに至る後北条氏(ごほうじょうし、鎌倉時代の北条氏とは別であるために、後の時代の北条という意を込めて呼ばれる)の家祖である北条早雲<ほうじょうそううん>(1432年~1519年)などです。

諸説あるのですが、彼は伊勢新九郎といって、浪人の身の上ではありながら、親族のコネクションから伊豆の韮山に城を与えられ、後に伊豆を制覇し、小田原城に拠点を持つ大森氏と戦い、これに勝利します。

早雲が当時の平均寿命から見れば長寿といっていい60代の出来事でした。

それからは相模国(現在の神奈川県)などを傘下に収め、後北条氏の勢力基盤を築いたとされています。

美濃国(現在の岐阜県)の戦国大名である斎藤道三<さいとうどうさん>(1494年~1556年)なども、下克上の流れに乗って世に出てきたとされています。

これまでは、道三が一代で美濃国を支配したとされていましたが、現在では父との親子二代で美濃国を奪い取ったとされています。

それにしても、家来に過ぎない人物たちが守護職である大名から、その大名が収める領地、または国を奪い取ることが出来る状況が当時としてはありうべからざる事態であったことのようです。

また以上の例よりも凄惨な”父の座を子が奪い取る”という事態まで起きています。

・・・この続きは次回までのお楽しみということにさせて頂きます。

突然の故障にレンタルパソコン

先日は様々な要素が重なり、11月にして、関東でも積雪を記録するほどの雪が降りました。

朝方には牡丹雪が降り、通勤通学に影響を及ぼしたことでもニュースになりました。

天気予報などでも積雪の可能性を予報していましたが、実際にその状況になってみなければ、実感として湧かないのが現実でございます。

雪や雨は予測することができますが、パソコンなどの精密機器によく起きる現象として、突然の不具合であり、こちらは予測することが難しいようでございます。

仕事の延長線上でパソコンをご利用されている方だけでなく、私生活でもご活用されている方にとっても、突然の不具合は深刻な問題となっているようでございます。

 

ですが、突然の不具合から新規購入、あるいは修理に出すといったことは簡単なことではないように思われます。

新規購入となるとやはり高額な出費が予想されます。修理となると日数がかかることもございます。ある程度の期間があれば、新規購入も修理も可能かもしれませんが、その間はパソコンがご利用頂けないということが悩みの種となってきてしまいます。

そんな時にレンタルのパソコンはいかがでしょうか?

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レンタルであれば、お好きな期間でパソコンをご利用頂くことが可能でございますし、費用も比較的、安価で済むということもございます。

また、別途料金はかかりますが、オフィスソフトをインストールした上でのパソコンの貸出もございますので、こちらもご安心頂けるかと思います。

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レンタルであると故障などが心配だという方には「安心補償プラン」という制度がございます。

こちらはレンタル料金の20%の金額を追加でお支払頂くことでご利用可能な制度でございます。故障時のお客様のご負担が10%になるというものでございますが、盗難、紛失等の本体のないものに関しましては対象外となってございますので、ご了承くださいますようにお願い致します。

 

突然の不具合といった場合にレンタルをご利用頂く上で、ご心配な点に急を要する場合ということが挙げられるかと思います。

出来れば、早めに届けてほしいといった声も中にはあるかと思われますが、当日16時までにご注文頂けましたら、最短で翌日中の納品が可能となってございます。

また、どんなに遅い場合でも48時間以内の商品到着が可能でございます。ただし、離島・一部地域を除いての場合でございますので、こちらも併せてご了承くださいますよう、お願い致します。

 

ぜひ、ご検討のほど宜しくお願い致します。

年末年始はレンタル商品で年越しを

今年も残すところ、あとわずかとなってしまいました。

近年では年中無休や24時間営業といったお店は珍しくない光景ですが、年末年始となるとお休みをするお店の方が、まだ多いようでございます。

年中無休といった光景に慣れてしまうと、年末年始のようにお休みをするお店ばかりといった光景に改めて驚いてしまいます。

人によっては帰省や旅行に出かけたりする方もいらっしゃるようですが、年末年始は家でゆっくりしていたいという方もいらっしゃるようです。

ですが、先述のように年末年始は娯楽施設が営業していないこともあります。

そういった時にレンタルのWi-Fiルーターはいかがでしょうか?

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スマートフォンやタブレットをご利用していらっしゃる方には、通信量制限は悩みの種となっています。ましてや、家でゆっくりするとなるとどうしても通信機器に依存とまではいかなくても、手放せなくなってしまいます。

そうするとあっという間に契約した通信量を超過してしまいます。そういった休みが制限された期間で、快適にインターネットをご利用されたいという方にはレンタルのWi-Fiルーターが最適なようでございます。

レンタルであれば、期間もお好みの期間でご利用頂けますし、新規で購入するよりも安価なお値段で済ませることも可能かと思われます。

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また、家でゆっくりという方だけでなく、旅行や帰省で外出される方も条件は同じではないでしょうか?

旅先でもやはり年末年始であることに変わりはなく、休業している娯楽施設も多々あることかと思われます。

そういった状況でもWi-Fiルーターですと、場所を選ばずにインターネットを快適にご利用頂けるかと思います。

 

例として、ご家族ですと旅先や順番待ちをしている最中に小さなお子様が慣れない景色や状況に驚いて泣き出してしまうということから、お子様をあやすためにWi-Fiルーターと無線で接続したスマートフォンやタブレットのゲームアプリや動画の視聴などにご利用されるというケースもあるそうでございます。

 

ぜひ、年末年始に向けて、レンタルのご検討を宜しくお願い致します。

勤労感謝の日にWi-Fiルーター

11月23日の水曜日は“勤労感謝の日”でございます。

もともと、農業国だった日本では古くから神々に対して、五穀の収穫を祝う風習があったそうでございます。

収穫は向こう1年間の生活に大きく左右しますので、収穫された食物に感謝する大事な行事として、飛鳥時代から始まった“新嘗祭”(にいなめさい、しんじょうさい)という儀式が、勤労感謝の日の原型を成すものとされています。

この新嘗祭が、戦後の日本を一時的に統治した占領軍の占領政策の一環として、改称されたものが現今の勤労感謝の日というわけでございます。

ですが、一般的には勤労感謝ということから、労働者のための祝日というイメージが定着しているようでございます。

そんな勤労感謝の日にレンタルのWi-Fiルーターはいかがでしょうか?

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レンタルですと、新規に購入するよりも比較的、安価で済みますし、何よりも長期や短期とご希望の期間でご利用頂けます。

このWi-Fiルーターがあるだけで、場所などを気にせずに、安心してインターネットをご利用頂けますので、パソコンやスマートフォン、タブレット、果てはゲームなどにも無線で接続して頂き、快適にお楽しみ頂けることと思います。

また、接続方法などを記載した説明書も同梱しておりますので、より簡単に分かりやすくご利用頂けるかと思います。img_00011

レンタルの商品だと借り物だから故障が心配というお客様には、“安心補償プラン”という制度がございます。

レンタル料金の20%の金額を追加でお支払頂くことでご利用が可能でございます。こちらをご利用頂きますと、故障時にお客様のご負担が10%になるというものでございます。

ただし、盗難・紛失等の本体のないものに関しましては、対象外となっておりますので、ご了承下さいますよう宜しくお願い致します。

 

また、当日16時までにご注文頂きますと、離島や一部地域を除いて、最短で翌日中の納品が可能となっており、どんなに遅い場合でも48時間以内の到着が可能でございますので、こちらもご安心して頂けるかと思います。

 

ぜひ、ご検討のほど宜しくお願い致します。

レンタルiPadで関ヶ原 最終回

いよいよ年末の足音が聞こえ始めたように思えます。

布団は掛布団を温かくするよりも敷布団を温かくする、つまり床から冷えてくるとのことから、極力、敷布団の上には毛布のような保温性のありそうな寝具を敷くという方もいらっしゃるようでございます。

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購入するよりも安価なレンタルタブレットレンタルiPadで読む、電子書籍をおすすめ致したく、10月頃から続けてまいりました、この関ヶ原に関する記述も今回で最後となります。P_500

少しでも書籍に親しみを感じて頂けたら幸いでございます。

 

お話は関ヶ原に戻ります。

西軍に押され気味の東軍・総大将である徳川 家康は、他の諸将同様に寝返りの使者を小早川 秀秋にも送っていましたが、一向に寝返る動きを見せないことに苛立っていました。

西軍の実質上の総大将である石田 三成も、味方であるはずの秀秋が動かないことに、動揺を隠せずにいました。

何度も使者を秀秋が陣を構える松尾山に送り、出陣を促していました。秀秋は双方の総大将が提示する褒賞に迷いがあったともいわれています。

しかし、一刻を争う戦場で、そのような迷いは許されるものではありません。

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その時、松尾山に数発の銃声が響き渡ります。

家康の陣から放たれた銃声で、その銃声は“早く寝返れ”と告げていたのです。

ここに、家康の巧みな駆け引きがあり、相手を見て、どういう手段を使えば、相手を震え上がらせることができるか、などは手に取るように分かっていたのでしょう。それだけ、時が彼を百戦錬磨の名将に仕立てていたのです。

後に江戸幕府を作り上げた家康ですが、彼がこの銃声で豊臣の天下を覆したように、その数百年後に、浦賀沖に現れたペリー提督率いる艦隊に数発の砲声で、徳川の天下を覆されることになるとは、思ってもみなかったことでしょう。

この銃声で、完全に家康を怒らせたと怯えた秀秋は一万五千の兵を松尾山から“敵軍”に突入させます。

その敵軍とは、秀秋の挙動が怪しいとして、もしもの時のために抑えに控えていた大谷 吉継だったのです。

大谷隊に突入した小早川軍を見て、他の西軍の数隊も寝返ります。ここに、西軍は一挙に崩壊します。

三成やキリシタン大名として名高い小西 行長、宇喜多 秀家などは再起をかけて、戦場を逃れました。

戦いは、その日の朝に始まり、夕方に終わったのでした。

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というように関ヶ原の戦いは日本中を巻き込んで、繰り広げられた合戦だったのです。

先述のように東北には伊達 政宗や上杉 景勝による心理戦が展開し、信州では西軍に付いた真田軍の挑発に乗った後の二代将軍・徳川 秀忠率いる別働軍による第二次上田合戦、九州では、黒田 官兵衛の名で知られる天下一の軍師・黒田如水による隙あらば、天下を狙おうとする匂いが強い九州統一戦と、様々な戦いがありました。

ここには、列挙しきれないほどに思惑が錯綜しています。電子書籍で様々な歴史に触れて頂けましたら、幸いでございます。

ぜひ、レンタルのご検討、宜しくお願い致します。

レンタルiPadで関ヶ原 PART13

雨が立て続けに降りしきり、肌寒い日が続いています。皆様におかれましても、お風邪などにかからないようにと願う次第でございます。img_00011

”灯火親しむべし”、”読書の秋”ということで、購入するよりも安価なレンタルタブレットレンタルiPadで読む、電子書籍をおすすめ致したく、拙文ではございますが、前回に引き続き、関ヶ原の戦いについて、記述していきたいと思います。image381

少しでも書籍に親しみを感じて頂けたら幸いでございます。

 

五大老について記述してきましたが、いよいよ最後の人物となります。

豊臣家の重鎮である五大老ですが、徳川 家康・前田 利家・毛利 輝元・上杉 景勝は戦歴、領地、人望からいっても文句なしの人選であったかと思われます。

しかし、五大老には宇喜多 秀家という青年の名が連なっているのです。

しかも、二十二歳という若さで従三位・中納言という途方もない官位を与えられているのです。

秀家は備前国(現在の岡山県東部)に本領を持っていたため、“備前中納言”と呼ばれ、五十七万石を与えられていました。P_500

このように、秀家は天下人・秀吉から期待されていたのでしょう。そもそも、秀家の“秀”の字は秀吉の“秀”から貰ったものです。

秀家の父は宇喜多 直家という戦国大名で、謀略の繰り返しで勢力を拡大させ、一代で備前国・美作国(現在の岡山県北部)を版図に収めた人物でした。

このため、直家は周辺諸国からは油断のならない人物として、警戒されていました。そんな直家を挟むようにして、織田家の司令官だった秀吉と毛利家が対峙していたのでした。

秀吉は、“人たらし”といわれる人心収穫術で直家を味方に付けたのですが、それでも油断のできない相手でした。

しかし、直家も病には勝てなかったようで、秀吉にまだ幼い秀家の後見を頼んでいたといわれています。

ここで、秀吉は宇喜多家を味方につけておくため、秀家には自分の一字を与えて、後見役となり、彼を“猶子”としたのでした。

猶子とは「猶、子の如し」(なほ、このごとし)という意味で、家督相続権は持たない義理の子、養子の次のような存在でした。

秀吉と宇喜多家との関係については、様々な諸説があるのですが、これほどまでに秀家は秀吉から愛されていたことは間違いないことのようです。

それだけ、秀家には秀吉に才覚があると思わせる何かがあったのかもしれません。

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秀家はその後、関ヶ原合戦の際にも進んで西軍に参加し、一万五千の軍勢を率いて、激闘を繰り広げていますが、五大老の中では一番、秀吉の意向に従ったのは、この秀家であったといえるかもしれません。

このように、弱肉強食の時代にあって、律儀ということがどれほど価値のあったことかを記述してきましたが、次回からは、お話を関ヶ原の合戦に戻したいと思います。

・・・この続きは次回までのお楽しみということにさせて頂きます。

レンタルiPadで関ヶ原 PART12

”灯火親しむべし”、”読書の秋”ということで、購入するよりも安価なレンタルタブレットレンタルiPadで読む、電子書籍をおすすめ致したく、拙文ではございますが、前回に引き続き、関ヶ原の戦いについて、記述していきたいと思います。

少しでも書籍に親しみを感じて頂けたら幸いでございます。

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越後国(現在の新潟県)から、会津に移封され、百二十万石という領土を与えられた上杉 景勝は、“会津中納言”の名でも知られています。

景勝は、軍神と恐れられた上杉 謙信の養子です。景勝の母が謙信の姉ということで、彼は謙信の甥にあたります。

謙信には、その当時としては、異例なことではありますが、妻と呼ばれるような女性を持たなかったことで有名です。

家という考え方が、現在のようなものではなく、相当に重かった時代ですから、家を守る、血筋を絶やさない、家の名を汚さないといった考え方でした。

誰彼を指して、あの人は封建的な人だと耳にしたこともあるかもしれませんが、まさに封建社会だったのです。

ですから、大名には正室と呼ばれる妻だけでなく、側室と呼ばれる妻もいたのです。

つまりは一夫多妻制ですが、それほどまでにして、血統を絶やしてはならないという考え方が根付いていたのでしょう。

秀吉にも、正室・寧々だけでなく、側室・茶々がいました。その他にも、側室はいましたが、それが大名の世界では当然のこととなっていた訳です。

しかし、謙信は妻帯しないことを貫いていたため、養子しかいなかったのです。それが、いかに不可思議なことかについては、謙信女性説などの様々な説が検証されることから見ても、分かることかと思われます。

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そのように、実子がいなかった謙信亡き後、養子同士で争いが起こります。

正式な後継ぎを決めないまま、謙信が他界したため、家臣団の中で景勝を担ぐ者達と、上杉家と長年、敵対してきた関東の北条家から同盟の証として送られてきた北条 三郎=上杉 景虎を担ぐ者達とで上杉家は二つに割れてしまったのです。

これを「御館の乱」といいます。

結果的には、景勝が勝利を収め、その後、秀吉の傘下に下るのです。秀吉の軍門に下った景勝ですが、なおも本領である越後を統治しています。

そんな時に、関東の徳川 家康、東北の伊達 政宗をその中間地点である会津で監視する立ち位置にあった実力者の蒲生 氏郷が病に斃れます。

氏郷が抜けた穴はよほど大きかったのか、秀吉は氏郷に勝るとも劣らない景勝に白羽の矢を立て、越後から会津に移封したのでした。

そもそも、景勝の養父である謙信には変わった癖がありました。

大義名分がなければ、決して他国を攻めなかったことと、誰かに頼られると決して断らなかったことでした。

信濃国(現在の長野県)の川中島において、五度にも及ぶ合戦を繰り広げた宿敵・武田 信玄でさえ、「自分にもし何かがあれば、迷わず謙信を頼れ」と嫡子や家臣達に言い残しておいたほどに、謙信には私利私欲というものがなかったのでしょう。

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下克上の時代において、日本の統治を担っていた足利幕府は、地方に配置した守護職である大名達の膨張を抑えることが出来ず、統治能力を失い、守護職の大名達は、その家臣達の膨張を抑えることが出来ずに、朝廷から賜る役職などは、ほとんど装飾といってよく、有名無実なものでした。

”関東管領職”というのも、その一つでした。

力を失った関東管領からの頼みで、謙信はその職を引き継いだのでした。

関東管領職になった謙信は、その職務を全うするため、幾度となく関東一円を制覇し、小田原に拠点を持つ北条氏と戦っていますが、大局から見れば、謙信に利があるかといわれると首を傾げねばならない行動のようでした。

そのような謙信が作り上げた家風というものが、景勝に引き継がれ、やがては秀吉から五大老にまで任ぜられるほどに信頼を得たのでした。

・・・この続きは次回までのお楽しみということにさせて頂きます。

レンタルiPadで関ヶ原 PART11

朝方はすっかり冬のような寒さで、車の窓には霜が降りるようになりました。この季節は、特に風邪などの感染症には用心をしなければならないようでございます。

”灯火親しむべし”、”読書の秋”ということで、購入するよりも安価なレンタルタブレットレンタルiPadで読む、電子書籍をおすすめ致したく、拙文ではございますが、前回に引き続き、関ヶ原の戦いについて、記述していきたいと思います。

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以前より、関ヶ原の背景について、記述してきましたが、豊臣家の柱石を担った五大老について、引き続き、記述していきたいと思います。

五大老では、三番手にあたる毛利 輝元…というよりは、”毛利家”自体が頼られれば、決して粗略にはしないという律儀な家風として、戦国期ではよく知られていたようです。

以前の十五代将軍・足利 義昭による“信長包囲網”の際には、東で立ち上がった武田 信玄に対し、西で立ち上がったのが、毛利輝元でした。

祖父である毛利 元就の遺言により、天下を狙わないという家風が毛利家では根付いていましたが、名ばかりとはいえ、全国の武士の棟梁である征夷大将軍から、頼まれれば断るわけにもいかず、包囲網に参加したようです。

しかし、裏を返してみれば、毛利両川といわれた二人の叔父である吉川 元春・小早川 隆景の知恵が働いているようです。因みに毛利両川とは、吉川・小早川の姓に川の字が入っていることからきています。

信長の戦略方針としては、東は徳川 家康に任せ、自身は西国の大名すべてを打ち倒すつもりでいたようで、毛利家の広大な領地をそのまま保全する気はなかったようです。

その証拠となるかは言い切れませんが、奇抜なデザイン、吹き抜け構造という画期的なアイデアで築き上げた壮麗な安土城の次の居城として、軍事、立地、物流、すべての環境に適した大坂(現在の表記は大阪)の地に居城建築計画を立てていたそうで、本格的に西国に目を向けていたことは確かなようです。

その後、信長の遺志を継いだのか、秀吉が大坂の地に三国一の巨城・大坂城を築きます。

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毛利両川であり、知略にも恵まれた元春と隆景が、信長の企てを見過ごすはずがなく、将軍に従うという大義の下に、自身の領国を守るために立ち上がった観があるのです。

その頃、毛利家を攻めるように命じられていたのが、羽柴 秀吉といった頃の豊臣 秀吉でした。

秀吉は、姫路周辺を収めていた小寺 官兵衛といった頃の黒田 官兵衛を味方に付け、中国地方の攻略にあたるのですが、中国地方に割拠する豪族達は、ほとんどが毛利家の家風である律儀さを頼って、秀吉に味方をしようとする者が少なかったのです。

言ってしまえば、官兵衛のような中国地方周辺の情勢に明るく、無私の知恵者がいなければ、人たらしと言われた秀吉でさえ、播州(播磨国、現在の兵庫県)一円の平定には、さらなる苦労を強いられていたかもしれないのです。

秀吉は散々に手古摺らされて、あと一歩というところまで、毛利家を追い詰めた時に起きたのが、主君・信長が斃れた本能寺の変でした。

一躍、天下に躍り出た秀吉は信長の遺産を引き継ぎ、盤石を固めた後に、毛利家を既成事実で以って、臣従させ、毛利家の領土を安堵し、自身を苦しめ続けたその家風である律儀さを買って、五大老の席に列したのでした。

・・・この続きは次回までのお楽しみということにさせて頂きます。

レンタルiPadで関ヶ原 PART10

寒暖の差が激しくなってきているようでございます。この季節は、温かい鍋物が大変に好まれるようで、様々な出汁の素を店頭で見かけるというのも、秋や冬ならではの景色のように思われます。img_00012

”灯火親しむべし”、”読書の秋”ということで、購入するよりも安価なレンタルタブレットレンタルiPadで読む、電子書籍をおすすめ致したく、拙文ではございますが、前回に引き続き、関ヶ原の戦いについて、記述していきたいと思います。

少しでも書籍に親しみを感じて頂けたら幸いでございます。img_00021

今回も前回に引き続きまして、関ヶ原に至るまでの重要な事柄として、史上初となる全国的な統一国家の柱石を担った豊臣家の五大老について、記述したいと思います。

五大老の人事に律儀ということが、基準になったことについては、家康だけでなく、前田 利家・毛利 輝元・上杉 景勝・宇喜多 秀家にも同様に当てはめることが出来ます。

 

五大老では、家康に次ぐ実力者であり、”加賀大納言”として知られる前田 利家は、元々は秀吉の同僚で、信長亡き後に起きた秀吉と柴田 勝家との争いも、曖昧な態度を取ることはありませんでした。

元々は織田家の家来だった勝家、利家、秀吉は主人・信長が同じく同僚だった明智 光秀のクーデターである“本能寺の変”にて、斃れたことにより、それまでの関係が一変してしまうのです。

秀吉とは、自宅が隣同士で、お互いの妻同士も仲が良かった利家にとって、彼の直属の上司にあたり、「柴田の親父様」と畏敬の念を込めて、そう呼んでいた勝家にも、恩義があり、双方が敵対することは、自分がそれまで築き上げたものにまで、影響する一大事件であったことは言うまでもありません。

結局、利家は勝家に味方し、決戦場の”賤ヶ岳”まで赴くことになるのです。

後世に伝わるところの「賤ヶ岳の合戦」は結果として、天運は勝家には付かず、秀吉に味方し、利家も戦場から早々に撤退しています。

利家も秀吉に刃を向けるには躊躇いがあったのか、はたまた戦場に赴き、柴田方に付いたことで、一定の義理は果たしたと解釈したのかは定かではありませんが、勝家はそんな利家を責めることもせず、退却しています。

その後、利家は秀吉から厚く遇され、律儀とはいえ、危険人物である家康の抑えとして、五大老に列せられ、加賀国(現在の石川県南半部)・能登国(現在の石川県北部)・越中国(現在の富山県)に百万石近くの領地を与えられたのです。

さらに秀吉は家康の官位を昇進させる度に利家の官位も昇進させているのです。

家康が正二位・内大臣であれば、利家は従二位・権大納言といった具合にでした。やはり、利家にも律儀な性格があり、秀吉から家康とはまた違った信頼を得ていたのでしょう。

・・・この続きは次回までのお楽しみということにさせて頂きます。